自己満足を(少しだけ)超えていくこと
部活動のこと。7月中旬に発行する新聞の入稿が佳境に入っていて、必死の形相でパソコンに向かう若い人たちの熱気(殺気?)がみなぎっている。昨日、やっとゴールテープが見え始めた。
いつものことだが、どこまでが自己満足で、どこからがそれ以上なのかと悩む。部活でいったら、書き上げて入稿するまでは部室に人が多いのだが、校正の段になると急に寂しくなり、ほんの数人で最後の点検をする、ということもままある。
表現は何にせよ一定の責任がつきまとうもので、予想外の反応や御批正が返ってくることもある。人それぞれ考えは違うし、それは起こりうることだが、せめて、人は興味を持ってくれるだろうかとか、どういう受け止めをされるだろうかといった「ロールプレイ」が必要なのではないか、と考えている。一度作って終わり、では自己満足の域を出ない。
私の本業でいうならば、授業もそうだ。予習段階では、本文とは別の本や先行研究などを渉猟することもある。が、それを厳選せぬままにすべて授業の中で披瀝しても、若い人たちのほとんどは困惑するだけだろう。この話をしたらどんな反応をするだろうか、興味を持ってもらえるだろうかといった、事前の「ロールプレイ」がとても重要となる。
その一方で、人に喜んでもらう前提として、自分自身が興味を持ち、楽しむことも必須だと思っている。嫌々ながら作って人に差し出したものには、作り手の思いというか、魂というか、そのようなものが欠落していて、結果としてガラクタとなってしまう、そういう恐れを抱いている。
自分も満足できて、そして、人にも喜んでもらえる地点があるなら、それは目指すべき幸甚である。
今日、ある道に命を掛けているひとが携わった作品に触れた。(そのひとの人間をまがりなりにも知っているのもあってか)魂のようなものを感じたし、どんどん凄みを増していく世界観に驚きすら覚えた。負けていられない、私も。