陽炎に眩む夏

8月某日、長崎市役所にて「ミライの平和活動展 in 長崎~テクノロジーでつながる世界~」を訪れた。VRでウクライナの破壊された建物を体感、凄惨な状況の中で壁に残されていた子どもの絵は、胸に迫るものがあった。展覧会の「仕掛け人」である東京大学渡邉英徳先生も会場にいらっしゃって、直接お話をすることができた。渡邉先生は実に多岐にわたる活動を展開しておられる。この日は子どもたち対象のワークショップも会場内で実施されていて、戦時中の長崎の写真や動画をAIを用いてカラー化したものを投影していらっしゃった。カラーにすれば、当時の人々の生活を身近なものと感じられる、と渡邉先生。本年元旦に発生した能登半島地震に関しても、地元のNPOと連携しながら被災状況の発信を続けていらっしゃる。


8月某日、東京へ飛ぶ。戦災にまつわる資料館をいくつか訪れた。分かっていたことだが、ミュージアムごとに、展示を通して届けようとすることの色合いが大きく異なっている。世界の混迷深まるばかりの2024年に、私は、「何を真とするべきか」という問いに対する確かな答えを持てていない。だから行動したのだろう。過去から学ぶべきこととは? 若い人たちに伝えるべきこととは? 灼熱のコンクリートの上で、立ち上る陽炎に眩暈を覚えながら、止めどない考えに襲われていた。

かつて何度も通った新宿の紀伊國屋書店。同建物内のホールで、鴻上尚史さんの「朝日のような夕日をつれて」初日を観劇した。「The演劇」を観たという感じ。ただ、不条理性と希望とをくっきりと差し出すには、どうすれば良いのか。門外漢の素人感想ながら、もっと「冷たい」芝居であった方が、深淵から現れるものを差し出すことができたのではないかと感じた……開演前に、春風亭昇太師匠の落語を末廣亭で聞けたのもラッキーだった。


翌日、浅草公会堂で尹雄大さんのワークショプに参加。「身体と言葉の関わりを知る」。畳の部屋で寝そべったり人と向き合ったりしながら、日頃は忘れてしまっている「基盤としての身体」と向き合う時間となった。私の的外れな質問にも丁寧に答えてくださり、感謝している……言葉を扱うもののはしくれとして、身体から発せられる確かな言葉を、紡いでいきたい。

国語の為事。混迷続く世界の中で、若い人たちにどのようなテキストを届けるべきなのかと悩みながら、夏も「お宝探し」に勤しんだ。上記のように、刺激を求める相変わらずの旅を敢行したわけだが、すべては、自分の為事にどう落とし込むかという1点が根底にあるように思う……「やはりそうか」と意識した時に、自分で失笑した次第である。

ただ、喘息の状況が著しく芳しくない。8月の検査ではNO値が正常値の5倍を示し、学校再開後は息も絶え絶えの授業となっている(本当に申し訳ない)。まあ、これだけはちゃめちゃな47年を過ごしてきたのだから、やり残したという思いも最早、あまりないのだけれども、「万が一」に備えて、目の前の若い人たちに極力迷惑を掛けないような算段だけは立てておこうと思う。

 

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