秋は来にけり

人こそ見えね秋は来にけり、山の麓で迎える秋、近くの公園では桜の葉が落ち始め、間もなく、コスモスが咲き乱れることだろう。

3年前の今頃を思うに、為事の量は半分ぐらいにまで減っているのではないか。時間が空いたときに突然、さびしさに襲われて、いつかの深淵が顔を覗かせたりもするが、都度、深呼吸をしてしのいでいる。自分の家族をめぐる状況も変化しつつあるので、私に余裕ができたのは丁度良いのかもしれない。もちろん、時間がある分だけ丁寧な為事を届けようと腐心している。夏の学びを生かす秋、小人閑居して、ささやかなる悪だくみを為す。(御覧の皆さま、小生、暇を持て余しております、仕事、くださーい!)

 時に聞こえてくる下界の喧噪。私にできるのは、穏やかであれかし、幸多かれかしと、葉隠から願うことだけだ。

「常朝先生垂訓碑」

 山籠りはまた、自分は世の中とつながれているのかという疑念も呼び起こす。だから、「立ち位置」を確認すべく、インプットに努めている。虚偽があふれる現代にいかに相対するべきかを(ハンナ・アーレントらを引きながら)示した重田園枝さんの本。「世界は、生まれ変われるか」を突きつける映画「怪物」……先日は、こまつ座の「闇に咲く花」を観劇した。人々のささやかな祈りと国家との関係とについて、改めて考えさせられた。舞台上にあまた並んだ「面」が私を見つめ、こう問いかけてきた、「で、君はどうするの?」…「立ち位置」なんてどんどん変わっていくものだが、その時点での暫定的な「立ち位置」を自認して言語化できるようにしておくことは、若い人たちの前に立つ者の責務ではないかと思っている。
 高台で朝夕の涼風に吹かれながら、私は少しさびしげに微笑む。
 秋は、来にけり。

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