周囲を不幸にするひと(世間様には顔向けも)

孤独な年末年始。為事が何もないと心が穏やかではなくなるのは容易に予想できたから、高校2年生の生徒たちに秋休みを利用して書いてもらった「志望理由書」(200枚超)すべてに朱を入れるというチャレンジに出ている。ここまでの分量を扱うのは初めてだ。が、年末年始ぐらいしか十分な時間を取れないのだからと自らを奮い立たせ、集中力が切れたら場所を移動するノマド民と化しながら、1枚1枚と向き合う日々を送っている。綴られた文章から立ち上ってくる、若い人たちの、息吹。どのように応答するのがベストなのか、1枚1枚とにらめっこしながら、腕組みをして、唸る。

そして思い出す。私は若い人たちとじっくり対峙するために、安住の地を捨ててここに来たのだったと。2年も経っていないのに、もう忘れかけている。そして、諦めかけている。情けない話だ。

若い人たちが自分の目の前にいる時間は刹那にすぎない。猛スピードで集まり、散じていくのが学校空間だ。私ができることなんてほんの僅かに過ぎない(いや、何もできないという前提に立てと、かつて若い人から教えられたのだった)。それでも全身全霊で向き合いたいと願い、私は彼らの前に現れる、動く、演じる、応答する。授業や、言葉のやり取りを通して、眼の前の「人間」に私の「人間」を差し出し、考える材料を提供する。「鏡」になろうと努める。それが長年、自分で自分に課してきた為事では、なかったのか。

一時期、「自分は周囲のひとを不幸にする人間だ」と発するのが口癖だった。どこまでも突っ込んでいく性分が災いして、特に近しいひとには迷惑をかけてばっかりだった。そういう自認があるから、必要以上にひとに近づかないようにしている、というのが実際のところだ(そういう私を短期間でも相手にせざるを得ない若い人たちには、あらぬ負荷をも掛けてしまっているかもしれない)。……いつか弟から「兄貴は自分から離れていこうとしている」と指摘された。観察眼の優れた弟ならではの言葉だ、良く分かっている。

私の関わったひとが、いつしか船出をして遠くでほんとうの幸いを手にするのなら、(さみしさはないと言えば嘘になるが)私にとっても嬉しいことだ。それを微笑んで見送るのが、私の務めだと自分に言い聞かせながら、独り今日も、赤ペンを動かす。日暮れて、路遠し。添削はまだ、半分が残っている。

2023年、四捨五入したら50にもなるというのに、またもや唖然失笑されるような破天荒に打って出る。治らないものだ。世間様には顔向けもできねえ、や。

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