梶井基次郎『檸檬』の授業(2005年のメモより)
教員生活最初の12年間は公立高校に勤務していた。その中で、定められた研修(初任者研修、2年経過研修、5年経過研修、10年経過研修)を断続的に行った。正月休みに昔のパソコンを久しぶりにのぞいてみたら、若い時の格闘の名残がいくつか見つかった。今回はその中から、5年経過研修の際に作成した、梶井基次郎『檸檬』に関する覚書を示す。読みかえしてみると、言葉のあわいから若気の至りが滲み出るような恥ずかしさを感じるが、(檸檬だけに)今でも私の光になるかもしれないと考えて、以下に残しておく。
5年経過教員研修会課題「教科指導上の工夫と改善について」
梶井基次郎『檸檬』は文学的な文章の「定番教材」と言われている。御存じの通り、『檸檬』は「えたいの知れない不吉な塊」に心を押さえつけられていた主人公「私」が、丸善という本屋に入って本の上に檸檬を置き、それを爆弾に見立て、「気詰まりな丸善」を「こっぱみじん」にする想像を「おもしろ」がる話である。私は現代文で小説を扱う際は、クラス全員の初発の感想をまとめて生徒に配付しているのだが、本年度高校3学生に『檸檬』の初発の感想を書かせたところ、「私」に対する拒否感を示すもの、特に、檸檬を爆弾に見立てるという想像が理解できない、という感想が多く見られた。以下例を示す。
・何か暗い話で、読んでいて不愉快だった。
・主人公が暗くて、実際身近にこんな人がいたら怖いと思う。
・主人公は病気になっているように思う。精神的に参っているようだ。
・檸檬が丸善で爆発したらおもしろいという発想をする作者の気が知れないと思った。
教材を扱っている期間中にも、爆弾にまつわる不穏なニュースがメディアを賑わしたこともあり、一見不可解な「私」の行動や想像の意味を明確に示す必要性を強く感じたので、先行研究を渉猟してみた。その中で目を引いたのが次の一節である。
「檸檬」は青春の稚気を稚気と認めてこそ存立する類いの作品であって、梶井はそのことを通して「私」の現実的苦渋を精神的カタルシス効果で救抜する過程を描いたのだと言えよう。(「美的自己慰安の文学『檸檬』」古閑 章)
古閑の論に従うならば、檸檬を爆弾に見立てるという「稚気」にまみれた想像は、「私」の現実をも救済しうることになる。「想像は現実を変える力がある」ということを生徒に伝えようと考え、以下のような話をした。
大江健三郎氏の講演会で、氏が障害を持つ子を持った時、初めは受け止めることができず、そのことを小説『個人的な体験』に記した、という話を伺った。講演会後『個人的な体験』を読むとその通りに書かれていたが、結末では子を受け入れることができた。小説を書くという「想像」をすることによって大江氏の「現実」にも何らかの変化がもたらされたのではないか。
授業ではその後『檸檬』に戻り、檸檬を爆発させるという想像には「憂鬱な現実の精算」という意味が込められている、という押さえ方をした。
現代文の目標の中には「人生を豊かにする態度を育てる」という一節がある。日々の授業では、教材を読み解くことに執心するあまり、教科・科目の目標やそれを達成するための工夫を忘れてしまいがちである。文学的な文章においては、自分自身の生き方や心の在り方について生徒が思いを巡らすような授業の在り方を今後も追い求めていく必要がある。