甲子園と新聞部と(4年前のこと/今日のこと)
令和3年2月21日、朝6時10分。博多駅に集合していた私たちに大会本部から連絡が入る。「実施の方向」。雨が滴る中、私たちは新幹線に乗り込んだ。しかし天候は回復しない。2時間ほど経ってから、やむなく中止との情報が車内に届いた。4年前のセンバツ出場の際も、緒戦の創志学園戦は雨天順延だった。歴史は繰り返されるのか……選手たちは雨天練習場で調整したという。一方、応援団も博多に引き返すわけにもいかず、新神戸で降りた私たちは、人数を分散する形で「研修」を行うことになった。
京都。雨天とはいえ、3月の週末、桜も咲きつつあるシーズンに、こんなにも閑散としているのかと驚く。ここですぐに、「取材」を始めるのが大濠高校新聞部の性だ。目的地に着くまでに部員で策を練り上げて、バスを降りると、巧みな話術で観光地の置かれている苦境を聞き出した。4月に発行する本誌「大濠新聞NEXUS」の、コロナ関係の面に加えるつもりだという……自分たちで、これだけ動けるようになった。もう、大丈夫。卒業生たちの力も借りながら、信じた道を突き進んでいってくださいね。
4年前の甲子園の思い出。延長15回、1対1で滋賀学園と引き分け、再試合が決まった試合のこと。速報紙を作るにあたって、誰の写真を一番大きくすべきかで論争となった。通常ならば、一人で投げきったピッチャーだろう。ただ、8回に値千金の同点ヒットを放った4番打者は、それまで打撃で苦しんでいた。そちらを大きく載せるべきではないか。顧問も交えての侃々諤々の議論。そこで最終決定を下したのは、当時の編集長だった……生徒の主体的な運営を目指す部である、選択の結果ではなく、編集長が決済したということ自体に、とても大きな意味がある。振り返ると、当時の熱気がありありとよみがえるし、なにより懐かしい。
明日こそはアルプススタンドに入れるだろう。どんな1日になるのか。疲れた体の中で、私の心臓は高鳴っている。