君は僕だ(レクイエム)
精神的な不安定を抱えてからもう1年近くになる。特に昨年末は命も危ない状態で、一時は休職まで考えたが、結局そのまま20年目に突入している。以下に記すのは、昨秋ある媒体に寄せた随想で、レクイエムみたいなものだと捉えていただければ幸いである。
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無二の親友が突然、旅立った。いつも的確な助言をくれた人だった。私は残酷な現実を受け入れられず、その後長い間、自分の中の何かが欠けたような、えぐられたような感覚を味わい続けることになった▼世の中では日々、信じられない程のひどい言葉が飛び交っている。他者を傷つける言葉を発しても、謝りもせずに詭弁を弄して取り繕う者。中には、非を指摘されてさらに攻撃性を帯びる輩までいる。「こんな社会に誰がした」と若い人たちから責められたら、詫びのしようもない▼しかしなぜ、人を傷つけてはいけないのか。一つには、一人ひとりの人権を守るという観点が浮かぶ。しかしこのご時世、「そんなの美辞麗句だ」と批判されないとも限らない。ならば私はこう答える、人を傷つけることは、自分を傷つけることであり、それは避けるべきだからだ、と。例えば、小学生が大濠公園の花壇に植えたひまわりが、先日の花火大会で踏み荒らされたという。子どもの悲痛な声を聞いて、あなたも心を痛めたのではないか。でも、ほとんどの人は、その小学生とは何ら接点がないはずだ。ならばなぜ…。そう考えたとき、こういう仮説が浮かび上がる。「私と他者とは、不可分なのではないか」▼先に述べた「えぐられた」状態は、恐らく、自己存在というものの成り立ちに関係している…もはや言葉を発しなくなった知己に私はこう言って別れたのだ、「君は僕だ、ありがとう」。
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あなたがそこにいることが、今も私を苦しめ、かつ、私を生かすのである。