発信者として(社会とつながる・節度を持って/映画鑑賞・観劇の記録)
最近見た映画について。1本目は「なぜ君は総理大臣になれないのか」。「統計王子」との異名を持つ国会議員の小川淳也氏を、彼が国政選挙に初出馬した2003年から追い続けたドキュメントだ。私が一番度肝を抜かれたのは、2017年に小池百合子氏によって引き起こされた野党再編にまつわるワンシーンだ。玉木雄一郎氏と共に地元へ説明に向かう小川氏。難しい情勢にあって緊迫感のあふれる車中に、なんと大島新監督も同乗してカメラを回しているのである。風雲急を告げる事態の中でもその場にいることを許されるのは、それまで丹念に取材を重ねて深い信頼を得ているからに他ならない。高校の新聞部顧問である私は、締切に追われて慌てて記事を作って終わる、その日頃の取材のありようを顧みて、猛省した。2本目。堀潤氏の「わたしは分断を許さない」。2020年2月に、この映画に関するギャラリートークが行われ、その内容はすでに別記事で紹介した。映画は3月11日に福岡KBCシネマで観たのだが、9月11日に別府ブルーバード劇場に堀潤氏が来てアフタートークを行うと知り、居ても立っても居られず馳せ参じた。堀氏は、取材を十分に行わずに報道するメディアの現状について、温厚な物腰ではあったが厳しく指摘した。終了後、パンフレットに「共に発信を!」というサインをいただいたが、発信者としてのあるべき姿を教えられた思いだった。社会に強い関心を持ってつながりつづけること。
最近見た演劇について。9月某日、半年ぶりに劇場に足を運んだ。確かな力量の役者陣が小気味良く乱射する言葉たち。ただ、上演できることの喜びが溢れすぎていたからだろうか、ヘビーな100分だった。押し付けがましいのだ。私とてホールを持つ高校で演劇部顧問を担当していたし、ともだちと数多くの観劇をしてきたから、全くの素人という訳でもない。でも、その演目の良さが分からなかった。劇場を出た後で、自分が何かしらの影響を受けて変容したという感覚はなかった……客席にいるものが、自分の人生に引きつけて解釈できる、その余地を有する芝居でないと、内輪向けの「大人の文化祭」(映画「パラレルワールド・シアター」中の台詞)の域に留まるのではないだろうか。(三菱地所アルティアムで最果タヒの詩の展示会が開かれているが、「あとがき」に最果タヒはこう記している。「詩、という言葉が指すのは、作品そのものより、その内側にある光や痺れ。それらを見つけるのはいつも、読んだその人自身であって、あれは詩だ、と思うとき言葉の向こうに光を見つけた『自分』の存在が証明される。」)劇場の危機が叫ばれる2020年。かつて演劇に命を救われた私は、演劇に期待しすぎているのか。発信者は節度をもって表現すること。遥か昔、20代だった私は、目の前の演劇部員たちにそんなことも話していたように思う。(演劇に関する私見を述べた別記事はこちら。)ちなみに、映画「わたしは分断を許さない」を観終わった後、心に浮かぶ想念は、「で、君はどう生きるの?」といったものだった。つまり、委ねられているのだ。
私自身の発信の場は、授業であり、国語のテストであり(テストを通して伝えられることもあると考えている)、このHPである。社会とつながろうとする心性を維持できているか、節度を失ってはいないか、自問を止めてはいけない。その瞬間、発信者としての私には死が訪れるのである。