「現代文は文化の時間」(燃ゆる思ひはまだありや)

かさ上げのために土砂を運ぶ大掛かりな機械 (2015年、陸前高田市)

夏、ひーひー言いながらあれこれを捌き、お盆前に2日だけ休暇を取って回復を図ったが、ヒットポイントは半分も戻っていないというのが正直なところだ。「脳みそが筋肉痛」のような状態から脱しないまま、明日が来る、授業が始まる。今日は、一人きりで巣ごもりをして、「糸」を手繰り寄せようと躍起になっていた。

「現代文は文化の時間だ」……まだ私が初任者だった頃、大先輩から言われた台詞だ。テキストの読解だけにとどまるような授業ではいけない。そのテキストと世界とを関連付けて、若い人たちの興味が掻き立てられるような授業を展開せよ、そう指導されたのを覚えている。

今年度、私が選ぶテキストは、多分にコロナに影響されている(と思う)。5月末、学校再開後すぐに扱ったのは鷲田清一氏の「右肩下がりの時代を、どう生きるか。」というテキストだった。東日本大震災の1年ほど後に書かれた文章で、これから日本がどのような社会を目指すべきかについて、氏の考えを述べたものだった。コロナ禍においても、なお示唆に富む文章だと考え、若い人たちに読んでもらった。

明日からの授業では、大月敏雄氏の「町を住みこなす」というテキストを扱う。テキストでは、陸前高田市のサ高住(サービス付き高齢者住宅)の例が扱われている。そのサ高住は、設計の工夫により、高齢者が孤立しないような空間を実現しているという。コロナ禍で悲しい「分断」があちこちで起こっているとされる2020年に、どうすれば互いに手を携えて穏やかに生活していけるのか、みんなの「居場所」をどう実現するのか、私自身が知りたかったのだろう。これまで5回訪問した陸前高田市のことを生徒に紹介したいという気持ちもある。実は今日、福岡市のあるショッピングモールに久しぶりに出かけたのだが、店に入ってから、あっと気付いた。そこは、かつて物産展の応援に訪れた陸前高田市長に取材を試みた場所なのだ。自分の奥底でうごめいていた無意識が、私をそこに赴かせたのだ。

 

さあ、始まる。かなりしんどいけど、楽しいよ。

2019年、かさ上げは一段落し、 美しい水田が広がる。

 

 

 

 

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