さえない夏に
期待に応えられず、のたうち回った春。恢復しないままの日々。
新たなイマジネーションが湧いてこない、というのが苦しみの原因だったように思う。これまでならば、うまくいかない時でも反骨心がむくむくと頭をもたげ、動きを止めることはなかったように思うのだが、冷たい言葉とともに崖から突き落とされた私は、年齢からか、しばらく身じろぎもしなかった。誰も恨むことはできない。自らが選択して進んでいる苦難の道だ、責任は私に、ある。
3月末、私はふらっと旅に出た。久しぶりに訪れた長崎県立美術館。そこで、吉村芳生さんの「無数の輝く命に捧ぐ」に出会う僥倖に恵まれた。
この絵は色鉛筆で描かれている。写真に収めた藤の花を参考に、紙面の端の方から少しずつ、少しずつ、時間を掛けて書き上げたものだそうだ。私は絵には詳しくないのだが、細密に描かれたキャンパスを見つめているうちに、涙があふれそうになった(この絵は東日本大震災をきっかけに描かれた。一房一房が、亡くなった一人ひとりの魂だと思って描いたという)……私は、自分に与えられた仕事を丁寧にこなしているのか?この絵から、そう問いかけられている気持ちがした。
時は待ってはくれず、新年度が動き出した。襲いかかってくる「必要」に、受動的ながらも身体を動かし、これまでの経験と、新たにインプットしたものとを掛け合わせて差し出す。できるだけ、丁寧な為事を届けることを心掛けながら、「求め」に応じていく。
さえない夏がまた、やってくる。私が捧げられるものとは何なのか、自問自答が続いている。