小論文を必要とする人のために

確かに、各大学・学部のアドミッションポリシーによって求められる書き方は違ってくるだろうし、試験会場で問題を見た上で作戦を立てていく部分もあるのは百も承知だが、困っている人のよすがとなるもの、幾何かの汎用性があるものを示せればとの思いから、記事化に挑戦することにした。

低学年次から小論文指導が許される時には、下の例題一を導入として用いている。

例題一 九州大学法学部 二〇〇六年度 改題

ある日、急ぎの重大な仕事を抱えた某部長は、部下のAとBにその仕事をさせることにした。その仕事は、期限は翌日の朝までで、合格ラインは八十点に設定した。Aさんは、頭脳優秀な職員で、要領よく夕方五時までに仕上げて、さっさとアフターファイブを楽しみに帰った。仕事の出来ばえ八十五点であった。Bさんは、あまり優秀ではないが、まじめで努力家で、徹夜をして仕上げた。出来ばえは九十点であった。さて、あなたならどちらによい評価をつけるか。

生徒には、下の「小論文の型」を用いて書くように指示する。

1⃣私は●だと考える。(主張・結論)
2⃣確かに、×という考え方もある。なぜなら、▲だからだ。(反対意見に対する考察と、反対意見を支える根拠)
しかし、★という点において、●だと考える。(主張・結論を支える根拠)
3⃣以上の考察により、やはり私は●だと考える。(再び主張・結論)

すると若い人たちは、「型」を用いて筆を進め、一つの小論文を完成させていく。


次の授業からは徐々に問題の難易度・抽象度を上げていく。途中から、課題文型小論文(=「次の文章を読んで、あなたの考えを書け」)にも取り組む。その際、冒頭に課題文を要約し、その後で先述の「小論文の型」を用いるように指示する。つまり、

0⃣課題文で筆者は、~~~と述べている。(課題文の主張の要約)
1⃣(これに対して)私は●だと考える。(主張・結論)
2⃣確かに、×という考え方もある。なぜなら、▲だからだ。(反対意見に対する考察と、反対意見を支える根拠)
しかし、★という点において、●だと考える。 (主張・結論を支える根拠)
3⃣以上の考察により、やはり私は●だと考える。(再び主張・結論)

お気づきの方も多いと思うが、これは、型書き小論文で有名な樋口裕一氏の手法をベースとしている(氏の本を拝読したのはもう15年以上も前だろうか)。以降、若い人たちのやりとりを踏まえながら、自分なりにアレンジをしてきた。


補足を二つ。

①「確かに~、しかし~」を用いたいわゆる「譲歩構文」について。これを用いる際には、「二項対立」の枠組みを設定する必要がある。上の例で言えば「×」と「●」の二項が思考の枠組みである。二項対立を巧みに設定できるようになれば、汎用性は一気に高まる。例えば、「環境問題について書け」という問題が出たとする。環境を守るべきだというのは大多数が同意するところだから、「確かに、環境を守らなくて良いという考え方もある。」などと書いてはおかしくなってしまう。しかし、少し工夫すれば、譲歩構文が使える。「確かに、現状として人間は環境を守りきれていない。しかし、人間も環境の一部だとするシステム論的思考を敷衍していけば、近い将来環境は改善されていくだろう」という風に。ここでの二項対立は「人間は環境を守れない」と「工夫をすれば環境は改善されうる」である。
②より複雑で長い小論文を書かねばならない時に、字数が伸びずに困ることがあるかもしれない。その時はまず、接続詞や副詞といったつなぎ言葉(確かに・なぜなら・しかし・例えば・まず・また・さらに・ただし等)を意識して使うことを勧めている。長大な小論文を書くには、他にも「主張の根拠や具体例を複数並べる」「自分の主張に対する反論を想定して示し、それに再反論を加える」という手もあるだろう。

●そして、自分が将来専攻しようとしている分野に関しては、早い段階からネタをストックしておくことをお薦めする。いざ本番となったときに、適切な根拠や具体例が浮かぶ確率が格段に上がるだろう。


実際の解答例を以下に三つばかり示すことで、読者の参考としたい。「型」をベースとしながらも、その時々の問題に応じて柔軟な使い方をすれば、それで十分意味はあるのだと思う。


例題二 慶應義塾大学文学部 二〇一七年度

課題文は小川さやか氏『「その日ぐらし」の人類学 もう一つの資本主義経済』より(省略)

設問Ⅰ この文章を三〇〇字以上三六〇字以内で要約しなさい。(解答省略、なお、要約についてはここをクリック。)

設問Ⅱ 「分け与える」ことについて、あなたの考えを三二〇字以上四〇〇字以内で述べなさい。

【解答例】

課題文には、自分が必要としている量の二倍を収穫した上で分け与える上野村の事例と、剰余を生産しないままに食べ物を分け与えるタンザニアの農村の事例が書かれている。両者は互酬的であるという点で共通するが、二一世紀の資本主義を生きる私には、一足飛びにタンザニアの「分け与え」る世界にまで回帰することは不可能に思える。確かに、資本主義の弊害たる過剰なまでの生産は(環境の観点からも)改善しなければならない。しかし、不作の年は耐え忍べという要求は、物質的な豊かさに一旦まみれた以上、受け入れがたいのではないか。まずは、上野村が体現しているような、剰余を分け与え合う、円環的な時間の体現を目指すべきだと考える。ただし、タンザニアの農村にも学ぶ点がある。突然降りかかった運命に臆せず対処するたくましさである。あらゆる方策や関係性を駆使して事態を切り抜ける姿勢は、現代を生きる私たちも見習わなければならないだろう。

ちなみに、この例題二で設定した二項対立は、「上野村のような生活を良しとする」と、「タンザニアの農村のような生き方を良しとする」である。「ただし」を用いることで、対立軸の端点以外(イメージとしては二項の「間」、アウフヘーベンと言うと大袈裟かも知れないが)を自分の立場とすることを企図している。


例題三 青山学院大学 総合文化政策学部 二〇二一年度

課題文はイマヌエル・カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か』より(省略)

問1 本文の主張を200字以内の日本語で要約しなさい。

問2 問1で要約した主張に対する論理的な反論を200字以内の日本語で述べなさい。

問3 問1と問2を踏まえた上で、あなたはどちらの立場に立つか表明し、それを現代の具体的な事例をあげながら300字以内の日本語で展開しなさい。

【解答例】

問1 啓蒙とは、他人の指示を仰ぐことなく自分の理性を使うことだが、ほとんどの人間は自然において青年に達しても他人の指示を仰ぐことが楽だと考えその状態に安住している。一方、他人の後見人として何らかの指示を行いたがる人々もいる。この状態を脱するには、人間が自らの職業や地位から自由になることで理性を公的に利用できる「学者」となり、自ら考えることの価値を人々に広めることが必要だ。

問2 課題文には、人間は自分の理性を公的に使って啓蒙することが大切だとあるが、それを実行するにあたっては、自らの職業や地位の束縛を離れて自由になることが必要だとカントは述べている。しかし、そんなことが現実的に可能だろうか。自らの職業や地位に求められる振る舞いを逸脱すれば失職につながり、生活の糧を失う。それは避けねばならない。従って、人々を広く啓蒙するのは困難である。

問3 私はカントの立場に立つ。人間は理性を公的に利用できる「世界の市民社会の一人の市民」、すなわち、カントの言う「学者」たりえると考える。例えば、現在のコロナ禍。メディアでは、人を救いたいという一心で粉骨砕身するエッセンシャルワーカーのことが毎日のように取り上げられる。その人たちの根底にあるのは、打算ではなく使命感だ。また、自宅療養で外出できない人々のために、SNSを活用して食料を届けるという試みを自発的に行った学生がいる。見返りのないその行為に私的な打算を見て取る余地はない。つまり、職業や地位を離れないままで、「独自の人格」を有する「自由」な境地に至ることは可能なのだ。

ちなみに、この例題三で設定した二項対立は、「『学者』は自由な立場から人々を啓蒙することが大切だ」と、「自由な立場に立つのは難しく、啓蒙は無理」である。小問3つに分かれているが、上述の「型」を思考の補助として用いるならば、問2が「確かに~」の部分、問3が「しかし~」に相当することになる。


例題四 熊本大学文学部 二〇一六年度

課題文は竹内敏晴『教師としてのからだとことば考』より(省略)

設問 傍線部の「厄介な状況」が、なぜ生じていると筆者は考えたのでしょうか。また、その筆者の見解について、あなたはどのように考えますか。文章全体をふまえて、あわせて一〇〇〇字以内で述べなさい。

【解答例】

本来、人間はことばを発する際に、揺れ動く感情を抱えながらも、一つの行為を決断して相手に働きかけようとする。しかし、現在の学校教育は、情念やイメージを伴わない符丁としてのことばを使いこなすことを企図しており、その結果子供たちは人間関係を取り繕おうとして安易なことばを発して感情をすべて投げ捨てるようになるため、表面的にはのびのびと見えてしまう。このように、現在行われている教育の弊害として傍線部の「厄介な状況」が生じていると筆者は考えている。

私は筆者の考えに基本的に同意する。なぜなら、たとえ多少の摩擦を伴っても、互いの感情を表明し合った上で妥結点を模索しようとする姿勢こそが、社会生活では大切だと考えるからだ。例えば、日頃生徒と会話していて、こちらが少し厳しい口調で言葉を発するや否や、急に生徒が対話のチャンネルを閉ざす瞬間をしばしば経験する。複数の人間が生活する上で摩擦が生じることは必然なのだが、符丁としてのことばを使いこなすことを幼少期から刷り込まれてきた子どもたちは、摩擦が発生する兆しを察知するや、自らの感情を心の底に閉じこめてしまうのである。このような姿勢を一人ひとりが身につけているとして、それで健全な人間社会が実現可能だろうか。答えは否である。そもそも社会とは、複数の人間による相互作用で成り立つ場だからだ。学校は「小さな社会」である。社会の逆にあるならば、改めなければならない。

では、具体的にはどうすれば良いのか。例えば、流行の「アクティブ・ラーニング」が標榜するのは、「主体的・対話的で深い学び」である。対話的な学びでは、互いの意見を交わす場面を数多く経験する。自分と違う相手の意見も傾聴する。傾聴した上で自分の思いを重ねていく。そのような学びを繰り返すうちに、いつしか、自らの身体から生まれ出づる感情を自ずと表明できるようになっていくのではないだろうか。もちろん、教師には、対話を保証する場を作るだけの力量が求められる。

ただし、私は情報伝達のためのことば、あるいは符丁としてのことばを全部否定するつもりはない。場に応じて求められることばというものは確かに存在していて、それを適切に発することができるのは礼儀を身につけている証左でもある。その点は筆者に与さないが、子どもたちがことばを通して自らの感情を、思いを表明する、その力を育うべく、国語教師としての務めを果たしていきたい。

 

ちなみに、この例題四において「頭の中で」設定した二項対立は、「真の人間関係は摩擦を伴うものだ」と、「人間関係において摩擦は回避すべきだ」である。「頭の中で」と述べたのは、この記事の冒頭に示した「型」のうち「確かに~」の部分を書いていないからだ。代わりに、「厄介な状況」を脱するための具体的な策を記すことを優先した方が、自分の考えがより明確に伝わると考えて、「確かに~」を捨てた。繰り返しになるが、「型」は絶対ではない。武器として持っておいて、その時の出題内容に合わせて柔軟な使い方をすればよいと考えている。

 

 

 

 

 

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