捨てたい
熊本県南の大雨のニュースに心を痛めながら、昔のことをまた、思い出している。
別記事でも触れたことがあるが、かつて6年間ほど、バスケットボール部の顧問を担当したことがある。スポーツのできない私は、しかし若い人たちの熱意に巻き込まれて、ド素人ながらも審判の真似事をするまでになった。ただいつしか、こんな風に思うことが増えていった。「生徒よりも私の方が、バスケットを好きになってしまっているのではないか?」
なにぶん、私は重度のはまり性で、とことんまでやらないと気が済まないのだ。ただ、部活動は本来若い人たちのためにあるもの、意に沿った運営ができないとなれば、不幸だ。その思いがどうしても拭えなくなった時、私は環境を変えることを決意した。この状態が続くのは互いのために良くない、そう考えたからである。……今、携わっている分野は全く違うけれども、再びそのような疑念に強く苛まれている。
谷川俊太郎に「捨てたい」という詩がある。(『こころ』(2013)所収)
私はネックレスを捨てたい
好きな本を捨てたい
携帯を捨てたい
お母さんと弟を捨てたい
家を捨てたい
何もかも捨てて
私は私だけになりたい
すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう
でも私はひとりで決めたい
いちばんほしいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで
高校生の頃だったか、虚無的になり、すべて捨てていけば何か残るのではないか、と考えていたことがある。捨てて捨てて、何も残らないということを知った時、無駄と考えているあれこれも実は、私を形成する要素だったのだと結論づけたのを覚えている。
そして不惑を過ぎて、人生の変節点の一つを迎えつつある。今の私には、10代の頃の私とは違う結論がぼんやりと見えている。体力のピークを過ぎていく中で、捨てるもの/選び取るもの を選択しなければならない。ここ数年、大学入学共通テストをめぐる狂詩曲(特例追試験にかつてのセンター試験の予備問題を使うとのこと、公平性の観点から容認し難いし、共通テスト導入の意義を自ら半減させる暴挙である)にも翻弄されて、正直、疲れ果ててしまった。久方振りにひどい蕁麻疹に悩まされている。体に悪いと分かっちゃいるが、栄養剤の摂取も再開してしまった。…もう時間が来たようだ。私の「いちばん」を見定めて、決断しなければならない。これからの私のために。
あなたの、いちばんは、何ですか?