居場所としての学校について(長期休校で考えたこと)
新しいウイルスの「性格」の全貌は明らかでなく、万が一、第2波が来た時の備えとしてオンラインの整備は喫緊の課題だ、という前提の上で、以下記す。
オンラインで授業めいたものを届けるという行為を実際にやってみて。カメラを使って喋りながら、あるいは録音しながら、しかし「いつもと違う。何か欠けたものがある」(←山月記かい)という感覚がどうしても、拭えなかった。私は日頃、対話を軸に据えた授業を展開している。若い人たちの様子を観察し、その場の空気感も加味して理解度を想像し、どう発問するかも変えていく。だが、オンラインでもその臨場感を演出できるという感覚を、今のところ持てないでいる、というのが正直な懺悔だ。ここまでに作ったいくつかのオンライン教材はいわゆる「非同期」型だが、これが双方向的な「同期」型になったとしても、画面に小さく映し出される生徒たちの様子だけで心中を想像し、教室での授業と全く同じものを創作していく自信は、全くない。身体性を伴いながら、時間を、生活を共有する場、それが学校という空間だったのだ、と今回の事態で気付かされた次第だ。
ところで、教科の授業だけが学校ではない。例えば、別記事(高校生にできること①、高校生にできること②)でも記したように、文化祭で災害に遭った地域の応援をしようと若い人たちが動いたことがある。企画をやり遂げた時の若い人たちの充実感に満ちた表情は時が経っても忘れられない。もちろん、自分で何でもできるという人は学校なんかに頼らなくてもいいのだろうし、そういう生徒にも出会ったこともあるが、学校という空間は、人と人とをつなぎ、自分が社会とどう関わっていくかを考える、そういう機会を若い人たちに保証する場ではないか、と考えている。
休校が長引き、「新しい生活様式」なるものが要請されることで、各種行事が中止になったり、形を変えたりしていくことになる。部活動も、それぞれに取り組み方の変容が求められるだろう。学校という居場所が今後も社会に必要な存在であり続けられるか。超のつく難問を突きつけられていることは間違いない。何を変え、何を変えてはいけないのかを見定めること、それが求められているのだと思いながら、若い人たちとの再会の日を目前に、心の中で答えを探している。