教員20年目の終わりに

小径の向こうに何があるのか

 新型コロナウイルスの影響が長引き、勤務校では3月の後半に予定していた授業も行わないという変更がなされた。今日も、静まりかえった教室に入り、年度末の事務作業を少し進めた。

 今年度は私にとって教員20年目の節目の年だった(途中、7ヶ月間の育児休業を2回取ってはいるが)。国語では、これまでの研究の集大成となるような、納得のいく作品を2つ3つ、残すことができた。また、別記事でも記したとおり、8年間担当した新聞部の活動について全国の先生方に発信するという僥倖を得た年となった。ただ、何でも引き受けてしまうせいか、肝心の若い人たちとの対話を十分にできたかというと、反省が残る。不惑を超えたこともあるのだろうが、一昨年の夏に心のバランスを崩した後、とみに体力が低下した。自分の動きが突然止まる瞬間が時々訪れる。これからは、捨てる為事は捨ててでも、質の高いパフォーマンスを維持しなければならないと感じている。それができないのならば、続けるべきではない。

 年齢と言えば、私が働き始めた頃からお世話になってきた先輩方が御退職の時期を迎えつつある。円満にお別れできた人もいるし、互いの思いがぶつかってしまい喧嘩別れになってしまった人もいる。自分の至らなさを恥じるばかりだ。そして、育ててもらった私は、育ててきただろうか、ということにも思いをいたす。

  宮崎駿の『風立ちぬ』の中の台詞で、「賞味期限は10年」という言葉が強く印象に残っている。現在の勤務校に来て8年、先輩たちの御指導を仰ぎながら、変わりゆく国語教育のありようを追い続けてきたが、明らかに私の頭がエンストを起こし始めている。長くても、後2年。何を残せるのか、誰もいない教室で今日も、考えていた。並行して、次への準備も加速しなければ。

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