多くの人を巻き込むために(委ねること/余白を残すこと)
野田秀樹という有名な劇作家の「赤鬼」が近くで上演されると知り、観にいった。昔、演劇好きの友達に台本を読ませてもらったことがあって、あらすじは知った上で観たのだが、元の本にはふんだんにちりばめられていたはずの「寓意」を受け取ることができなかった。役者のレベルは高くて自信に満ちていて、高速の台詞は小気味よく、動きもダイナミックで、滞りなく2時間は過ぎたが、それだけだった。私が演劇の素人なのがいけないのか?(いつも小劇場で行われる演劇の客は同業者とおぼしき人がほとんどだ、「プロ」には分かる何かが私に分からないのかもしれない)上演からそれ以上の広がりを何も看取することができず、消化不良のまま劇場を後にした。……では、どんな芝居に惹かれるのか。例えば、だいぶ前どこかで観たものに「魔女」の話があったが、上演中は、なぜか「排他的な現代社会」にも思いを巡らせてしまうような、そんな広がりを持つ時間を味わった。きっと演出家は、中世の「魔女裁判」なども知っていたのだろう。もちろん、話の中に裁判やら全く出てはこなかったが。
自分が本業の国語の授業をやっていていつも考えるのは、「国語の得意でない人たちにどうやって興味を持ってもらえるような授業をするか」ということだ。(以下、感覚的な話になるがお許しいただきたい)授業のレベルを下げる、ということは私はしたくないし、していない。では、どうするのか。一つには、生徒に委ねる部分を作る、ということだ。発問を多くして自分たちで考える時間を保証する。こちらが黙っている時間(あるいは、机間指導で個別に対話する時間)をふんだんに設けるし、本文の解釈が分かれ得るようなところは(一定の正解の枠は設けるが)それぞれの答えを肯定したりもする。私自身の読みに自信がないところは、正直にそう告白して、生徒と議論をして深めていく。そうやって、場の力を使って授業を作っていくことが大事だと考えている。
相手に委ねること、そして、そのための「余白」を残すこと。自分が命を賭している分野でこれを行うのはある種の覚悟が要ることだ。しかし、これを成し得た時の方が、より多くのつながりを、広がりを現出させ得るのではないか。そんな気がしている。