他人であること(2012年8月、石巻/寂しげに微笑みながら)
「私は担任ではない、他人である」、若い人たちによく言う言葉だ。一人ひとりが自分で考えて行動する力を養うのが学校で、教師はそのサポート役に過ぎない。(いかに若い人たちのことが大好きでも、)このことを弁えて接しないと、ただ依存させるだけになったり、主体性を奪ったりしかねない、そう自分に言い聞かせながら日々を過ごしている。
2012年8月、石巻に取材に赴いたとき、「め組JAPAN」というボランティア団体に取材した。その時聞いたお話が強く印象に残っている。「今は自分たちは復興の支援をしているが、究極の目標は地域の人たちの自立だ。だから、時が来たら私たちは離れる、それが大事だと考えている」。精力的に活動していると、得てして愛着が湧きすぎたり、目線が近くなりすぎたりして、本当に大切なことを忘れてしまいがちになる。もちろん、ボランティアのスタンスはこうあるべきだ、という画一的なものが存在するわけではないのだが、私はこの団体の節度を持った姿勢に共感を覚えた。
その後各地で起こった災害にも、「め組JAPAN」は駆けつけて必要な支援を展開した。2018年10月、私たちは岡山県倉敷市真備で「め組JAPAN」を再び取材することになる。お会いしたのは別の方だったが、かつて石巻で伺った団体のスタンスはやはり踏襲されていた。他人として、熱く、かつ、クールに関わる。なかなかできることではない。
将来、居場所に関わる時にも、このスタンスは私の拠り所となるだろう。私は甘えん坊だから、あくまでも他人というのは、正直に言うと少し寂しい。それでも、一抹の寂しさを抱えたまま、穏やかに笑っていられる、そんな存在になりたいと思う。