旅の準備をするにあたって (2012年3月、気仙沼)

「復興商店街」に飾られていた絵

「旅のこと」の初めの記事とすべきものを考えた時、脳裏に浮かぶのはやはり東日本大震災の後訪れた東北(気仙沼)の風景である。かつて福岡県高等学校国語部会(福岡地区)の研究誌「つくし野」に寄せた拙文を記す。この後、新しい学校に赴任して新聞部顧問を拝命、若い人たちや知人と何度も白川の関を越えることになる。

「あの日から間もなく1年」という枕が巷にあふれ始めた頃、私は悶々としていた。あの日、私は採点業務で籠もっていたとはいえ、外界で起こったことを知ったのは既に日も傾いてから、という体たらくであった。あの日から一年、恐らく私は現実から目を逸らして、ただ日々をやり過ごしてきたに過ぎない。ただ、授業で「せ・○・き・し・しか・○」と唱える度に(いや、それを唱えることにも一定の意味はあるのだろうが)、ある種の虚しさを感じていたのも事実である。一度、この目で見てみたい。見て、教室で何を話すべきか、考えてみたい。

 だが、非力で体力のない私が、たとえばスコップから寝袋から一式を持って(←こんなイメージを持つこと自体が現実から目を背けてきた証拠だが)現地に行っても、すぐにひっくり返って足手まとい、完全なる自己満足である。ネットでも調べてみたがいい手が見つからない。諦めてツイッターを弄んでいたら、偶然「ボランツーリズム」というものを発見。「……被災地の経済を支援するのに最も効果的なのが、その地域の観光を利用、促進することだと言われております。また、被災地の方々のための『復興ボランティア』も行っていただきます。道具等はこちらで準備いたします。仙台の旅行会社だからこそできる、真のボランティア活動……」参加するならこれしかない!と後先顧みず申し込んだのである。

 出発(3月24日)の前日まで仕事に追われ、本当に着の身着のままで、一路東北に向かうことになる。東京発着、一泊二日の弾丸ツアーである。道中、ずんだもちを食べ、ラーメンを食べ、せんべいを食べているうちに、添乗員が合流。このツアーに対する思いをお話しになった。この旅行会社に務める某氏が、医療法人を営む陸前高田市出身の知人から「多くの人に東北に来ていただくのが復興につながるはずだ」と持ち掛けられ、このようなツアーを企画されたのだそうだ。ちなみに、添乗員の自宅も石巻で半壊したが、一年経っても屋根のみしか修理していない状態で、内部を直してくれる人間さえいないらしい。そんな話を伺っているうちに、バスは関山中尊寺に到着する。

 北上川・衣川を眼下に見ながらの散策。高館や金鶏山も初めて目にして、『奥の細道』の世界にタイムスリップ。金色堂はやはり圧巻。決して信心深くはない私にも、仏像群は厳かに迫ってきた。藤原清衡は、前九年の役・後三年の役で亡くなった人々を弔うために中尊寺を整備したのだが、今回の震災を受けて、新たな祈りをも受け止める寺院となっているように感じた(中尊寺は被災した各市町村に対して、物心両面の支援を続けている)。

金色堂入り口にて

 針路を海岸に取り、気仙沼へ向かう。車中では、東北放送が編集したという記録映像が流され、バスの中は沈黙に包まれる。そして街に入り、あるカーブを曲がった瞬間、平穏な風景は一変。夕闇迫る中、私たちは渡船場に着いた。建物があったとおぼしき跡には、今も水溜まりが残ったままである。瓦礫も所々に積み重なっている。汽船で暗い海を渡り、宿のある気仙沼大島へ。

汽船の周りを飛び交うカモメ

 翌朝、早くに目を覚ました私は、島内を歩いた。朝市へ向かう人々の笑い声が聞こえる。昨晩怖いと感じた気仙沼湾は、どこまでも穏やかである。ただ、浜には多くの車が積み重なっているし、昨晩は闇にまぎれて見えなかった港一体も、荒涼たる有様である。私のスニーカーには、泥が、重くまとわりついた。

 朝食を食べ、私たちはボランティアへ向かった。内容は当日急に変更になった。実は、宿泊した旅館の大将がコーディネーターを務めていて、ニーズがあった場所にボランティアを紹介するようにしているのだそうだ。大島にはボランティアを受け入れる災害対策本部があるのだが、個人レベルの小さなニーズに応えるためにはこの方式も必要だ、と教えていただいた。

 私が携わったのは半壊した家の解体手伝い。力仕事は苦手だが、ない力を振り絞って釘を抜く。ほどなく一服。依頼者の青年と話をしているうちに、流された地蔵の話になった。「まだ、見つかっていないんですよね」と私が尋ねると、「新しく作ったのが中にあるから、見てみるか?」と青年。そこで初めて、彼が新しい「みちびき地蔵」の制作者であると知ったのだ。こうして、翌日に「魂入れ」を控えた三体の地蔵と、幸運にも対面する運びとなったのである。

 「みちびき地蔵」は大島に伝わる地蔵で、亡くなった人々を極楽浄土へと導く神様であるという。危険な海の仕事に携わる人が多いこの島で、地蔵は厚く信仰されている。一年前のあの日、見知らぬ子どもが突如現れて「逃げろ」と人々に叫び、程なく消えたという。ちなみに、その集落は元々子どもが一人もいないのだそうだ。地蔵様が皆を助けようとしたに違いない、と青年は熱く語った。「今回亡くなった人々のためにも、地蔵が必要だ。復興はこれからも五年・十年と長く掛かるが、東北のことを忘れないでいてほしい」。懇願されて胸が熱くなった私は、職業を明かしてこう続けた。「私は、直接的には何も力になれないかもしれない。でも、地元に帰って、見聞したことを若い人たちに伝えることで、その若い人たちが力を発揮していくようにしたい」

 たかが一泊二日で、安直な答えを得られた訳ではない。関心を持ち続けながら、普段の自分の持ち場を守ること。私には、それしかできないのだ。

 そして私は、気仙沼復興商店街で「さんまパイ」を大量に買い込み、帰福後、「これ海に潜って取ってきたんだ」とうそぶきながら、若い人たちに配って回ったのだった。

その後、お堂は再建され、地蔵を迎え入れた

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